天津鞴韜(アマツタタラ、 蹈鞴とも記す)という言葉は、 初めて耳にする方がほとんどであろう。 しかし、「天津鞴韜秘文」といえば、武門宗門の最高極意であり、古代史研究家・古武道研究家・古神道研究家達の避けては通れない極めて重要で研究分野で、しかも深いベールに包まれた分野である。それは、古来これを語ることはもちろん、公表することさえ厳に戒められて来たものであるからである。


種村匠刀は、天津鞴韜武門宗門の第58世継承者であるが、日本の武門宗門の発展と顕彰のためと使命感から、 師伝として許される範囲において、ここに一般公開することとした。

最終更新 2008.04.07 17:19

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天津鞴韜(アマツタタラ、 蹈鞴とも記す)という言葉は、 初めて耳にする方がほとんどであろう。 しかし、「天津鞴韜秘文」といえば、武門宗門の最高極意であり、古代史研究家・古武道研究家・古神道研究家達の避けては通れない極めて重要で研究分野で、しかも深いベールに包まれた分野である。それは、古来これを語ることはもちろん、公表することさえ厳に戒められて来たものであるからである。


種村匠刀は、天津鞴韜武門宗門の第58世継承者であるが、日本の武門宗門の発展と顕彰のためと使命感から、 師伝として許される範囲において、ここに一般公開することとした。



「天津」とは、「天の」或いは「天道=大自然の」という意味で、「鞴韜」とは、武門と宗門の最高秘訣・奥義を意味する。高松師伝によると、「天津鞴韜秘文(アマツタタラヒブミ)の巻は、宗教・武道・人道一切の宝典の始めにして、弭摩王(ミマ王)の建国の宝典也」といわれ、 この 宝典が、弭摩王から九代目の伝承者である蹈鞴五十鈴媛命(神武天皇妃)を経て、斎部・久米(物部)・靫負・大伴・中臣(九鬼)の各氏族に伝えられたとされる。紀元前700年(一説に600年又は550年)頃に古代バビロニアのカルディア王国の弭摩王が、従者3名と共に日本に漂着し、 大和の三輪山に 住した。

弭摩王は、首飾勾玉伝の伝承者で、72個の玉の付いた首飾を天照大御神(アマテラスオオミカミ)に献上した。 弭摩王の従者の日槍之命(ヒボコノミコト)は、 詞韻より出た十種の神宝を持ち来たった。詞韻とは、真理の意識(天真)による霊術をいう。 紀元前500年(一説に550年)、 マレー民族の仏教徒吠檀達(ベーダ)数百名が大和に侵入し、天皇に反抗し戦いを挑んだ。 皇軍は三輪 山を要塞として戦った。吠檀達側は破れ、降伏し、磯城(シキ)に住することを許された。これより神々集議し、国を護るために、武器の使用法 などもはかった。


こうして紀元 10年頃までに神々が大事な奥義を書き加えた神世文字の一巻を「天津鞴韜秘文の一巻」という。



前記「天津鞴韜秘文の巻」が、 中臣家(九鬼家) に伝えられ「天津鞴韜中臣秘文(九鬼文書)」36巻となり、大伴家に伝えられ「天津鞴韜馗神之秘文(大伴文書)」18巻となり、 物部家に伝えられ「天津鞴韜謐心ァ琥録(物部文書)」22巻となり、長髄彦(ナガスネヒコ)を経て兄の大日児長命(オオヒコナガノミコト)系の安部家に伝えられ、「天津鞴韜麟鳳秘伝 (安部文書)」 30巻となり、 これを総称して 「神明四維(シンメイシイ)の秘伝」という。


寛永17年(1640)10月、この四家の秘文計106巻が、3代将軍徳川家光の命により、江戸紅葉山下の宝蔵に納められた。



大伴家伝の鞴韜秘文によると、「天武十一癸未年(683)十一月、 安部隼人をして 東国の兵に天津鞴韜秘勝彪底之巻を基礎として、剣・槍・体術・陣法等を教え習わしめ、また、持統三己丑年(688)八月、大伴連隼人をして西国の兵に高天原鞴韜五輪錫秘詆之巻を基礎として、 剣・槍・棒・矛・体術・兵法・陣営等を教え習わしめた」という。
また、物部家伝の鞴韜秘文によると、 「持統女帝三己丑年(688)八月 諸国兵士に神伝馗韜の武芸を大伴旅人勅令を以って教授す。 これ武道教授の始め也。」 とある。



鞴韜とか天津鞴韜という言葉が一部の者に知られるようになったのは、 高松壽嗣の代からである。高松は、神明四維の秘伝をことごとく継承し、これを愛弟子達に分け与え 、後世に残した。(敬称略)

高松直筆伝書
高松直筆伝書