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種村匠刀

高松壽嗣

木村正治

佐藤金兵衛

 高松壽嗣
 
 
高松壽嗣の武道歴については諸説あるが、出来る限り自伝及び史実等に基づ
 いてまとめて見た。以下文面の都合上並びに多くは既に歴史上の人物群のため
 敬称は全て略させて頂く。
 高松壽嗣は、通常「たかまつとしつぐ」と称されているが、本名は「たかまつひさ
 つぐ」と云う。「としつぐ」と称したのは成人後大分経ってからの様である。
  「ひさつぐ」では不幸が多かったので、運を変えると云う意味合いで、より強い響き
 の「としつぐ」とした様である。また幼少の頃は、寿太郎とも言われていた様で
 ある。初め「鬼角」と号していたが、門人の竹内信義にこの名を与えた。竹内はこれ
 より竹内鬼角斎と称し、武道界にその名を残している。高松はその後 「澄水」と号
 した。
 この名は門人の上野貴に贈られ、これより上野は上野澄水と称し、武道界で名声
 を馳せた。高松はこの後「翊翁」と号し、この名は誰にも譲られる事なく終生使わ
 れた。また鬼角と澄水と云う号の間に「画楽多武人」と云う号も使われていた事が
 九鬼神流の伝書に散見される。高松は60歳より日本画を始めた。素晴らしい武人
 の画が数多く残されている。


高松壽嗣
            高松壽嗣 骨法術構え

 高松壽嗣は明治22年(1889)3月10日兵庫県明石においてこの世に生を受けた。高松壽嗣生誕100年と云う
 記念すべき年に(平成2年、1990年)、私(種村)は奇しくも佐藤金兵衛より高松伝の多くの宗家伝を受ける事
 が出来た。また、私も先師高松より直接教導されたことがある。
 壽嗣は父高松義心と母ふしとの間の長男として生まれた。高松家はもと伊勢松ケ島細首城主一高松佐衛門
 督政俊の家系であるという。この政俊は熱田大宮司藤原俊廣より神伝天津路鴨の伝を受けている。父義心は
 熊野行者で大阿闇梨の称号を有し、明石においてマッチ工場を経営し、県会議員も勤めた名士であった。
 義心は熊野行者並びに天津鞴韜の伝承者と云う関係で、九鬼家と深い関係があり、その父の縁で壽嗣も九鬼家
 に早くから出入りし、九鬼家秘蔵の天津鞴韜伝書の筆写を許され、かつその解説や武教遍の補填・整備に尽力
 し、昭和20年の戦災で九鬼窟の多くの秘文書が焼失したので、再筆写してこれを九鬼家に返納している。


高松壽嗣

 高松壽嗣は神戸市荒田町において9歳より母方の祖父に当たる戸田眞龍軒正光(明治42年死去)に神伝
 不動流・戸隠流・玉虎流・虎倒流等を学び、22歳の時 に皆伝を許され、13歳より明石において水田芳太郎
 思房より藤田系の本体高木楊心流を学び皆伝を受け、17歳の時より石谷松太郎隆景より石谷伝の本体
 高木楊心流・義鑑流・九鬼神流・神伝鞴韜流等を傅授された。松太郎隆景は60歳の時、浪人して明石の
 マッチエ場経営の義心を頼りその守衛となり、その縁により 壽嗣は松太郎の武道を学ぶ事が出来たのである。
 松太郎は4年教授の後、壽嗣の膝の上で永眠した。壽嗣は13歳で約60名の不良団と決闘し、16歳で武蔵流
 体術の道場破りと対戦し、19歳で白刃の下での実戦勝負が始まり、21歳より中国(当時清国)に渡り、天津・
 満州にかけて約10年の実戦を経験している。
 高松自伝によれば、実戦12回、試合7回とある。25歳の時に天津に日本民國青年武徳会が発足し、その会長
 選出試合が行われ、柔術各流の代表者6名と戦って勝ち、其の会長に就任し、約3000名の会員に教授した。
 この間彼の地において漢國十八型と云う武術も修得している。大正8年30歳の時に帰国し、「蒙古の虎」と
 異名をとった壽嗣は、その後もやむをえず実戦をする事数知れずであったが、「大和の猫」となって後進の
 指導に当たったのであった。


高松壽嗣
        昭和47年(1972)4月2日逝去された

 戦前に門人として皆伝を受けた主な人は、木村正治・秋元文雄・木葉幸四郎・辰田安一郎・徳家武、戦後に
 皆伝を受けた人は、佐藤金兵衛・上野貴・竹内信義・初見良昭などがある。(敬称略)